フロンティア

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アムステルダム

チューリップ

心臓の壊れた男


●水との戦いとアムステルダム
オランダでは13世紀に入ると洪水を食い止めるためと人口増加に対処するために浅い湖沼や海の入江を堤防で囲い、排水して陸地を増やそうとする働きが出る。こうして作り出された原始的な干拓地は、有機物に富む肥沃な土地、ここから農作物が収穫され、人口増加を可能にした。16世紀になると排水作業に風車が使われ始めて干拓が急速に進み、飛躍的に農作物の増産となる。19世紀には風車に代わって蒸気機関が導入され干拓のピッチが上がる。20世紀に入ると北海から深く国土に入り込んだゾイデル海の締め切りと内海となったアイセル湖の干拓事業が国を上げて推進される。この締め切り大工事は1927年にスタート、1日4000〜5000人の力を結集して1932年に完成。オランダ人の執念の賜物と言える。締め切りの後、湖綯いにブロックが干拓され、多角的に有効利用され現在に至る。
アムステルダムは13世紀、ゾイデル海に注ぐアムステル川の河口に漁民達が村を作り、その村を守るためにダムを築き、避難のための港が設けられたのがアムステルダムの始まり。1883年に北海運河が完成し、アムステルダム港はエイマンデン港と結ばれた1952年にアムステルダムとライン川を繋ぐ運河が完成し、大型船舶がライン川から、アムステルダム港に航行するようになった。


●チューリップ

1593年にトルコ原産のチューリップ球根が、ライデン大学に赴任してきたオーストラリアの大学教授によってもたらされる。当時は高価でエキゾチックな花として珍重された。17世紀に入って西の海岸で盛んに栽培され、パリの社交界も加わり空前のブームが巻き起こる。広大な土地や屋敷、宝石等と取り引きされるが、ある日突然1株5000ギルダーもしていた球根が一夜で5ギルダーに値下がるという暴落が起きる。 農業に不向きな砂質の土壌に異国の風変わりな花を育て、換金性のある球根産業を発明し巨大な富を生み出してしまう、つまり何もないところからものを生み出すオランダ人。 その後もオランダの花卉栽培は土地、気候にぴったりとマッチして成長を続けている。 オランダの園芸・花卉産業部門は19世紀初め穀類の生産から転換されて以来、全産業のうちに占める比重が大。占有する農地は約110万平方kmで全農地の5.5%だが、この分野の生産観は約70億ギルダーで全農地の約35%を占有する耕作部門の約2倍。

キューケンホフ Keukenhof
ハーレムとレイデンの中間リッセの森林内にある約28ヘクタールの公園。1949年に球根栽培業者の展示場として造成される。圏内には約600万株ものチューリップを中心にヒヤシンス、水仙などが咲く。オープンは3月下旬から5月中旬の間。


●「心臓の壊れた男」 "Prins Hendrik"

ロッテルダムにある彫刻。作者はサドキンで1940年5月14日完成。ドイツ軍の爆撃で街の中心部を破壊された街を表している。第二次世界大戦でロッテルダムの街はすっかり破壊されるが、他のヨーロッパの都市とは異なる方式の新しい建物を建設することから急速な復興を遂げた。

●安楽死

オランダは世界に先駆けて安楽死を実践的に認知している国。延命治療をせず自然死を選択する消極的安楽死は尊厳死、対称的なのが積極的安楽死である。1993年に国会を通過した「安楽死容認法」は20数項目のガイドラインを満たしていれば、医師が自殺幇助や薬物などの注射等によって患者を死に至らしめても罪に問われないという内容で、翌年から施行されている。オランダでは自殺幇助を含めた安楽死による死者が毎年2300人を越えており、全死亡者の2%強にもなっている。 どうしてオランダが世界に先駆けて安楽死を事実上容認するようになったのか。これは個人主義が極めて徹底しているからと考えられる。成人の自己決定、自己責任の原則が貫徹しているため、最終的に「自らの死を決める権利」まで行き着くのかもしれない。それと「安楽死容認法」の基礎的要件として平等主義もあり、これもオランダ特有のものと言える。
オランダの写真家エルスケンは自分の死への過程を記録し続けた。